週報コラム 2018年3月〜

2018年3月4日(日)

 「このすべてのことが起こったのは、

主が預言者を通して言われていたことが

実現するためであった。『見よ、おとめ

がみごもって男の子を産む。その名はイ

ンマヌエルと呼ばれる。』この名は『神

は我々と共におられる』という意味であ

る。」     マタイによる福音書1:22,23

 

旧約預言の「実現」の意味

 主イエス・キリストは、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われました(ヨハネ5:39)。それは、直接的には例えば、メシアはユダのベツレヘムでお生まれになる、というような具体的な地名などを挙げて予告する、という点に現れています(ミカ5:1)。ミカ書5章1節は、ヘロデ王がメシアはどこに生まれることになっているのかを祭司長たちや律法学者たちに問いただしたときに挙げられた聖書箇所です(マタイ2:4~6)。ユダヤ人の宗教的指導者たちは、(旧約)聖書がメシアの誕生する地として証言しているのはベツレヘムだと理解していたわけです。

 その前にもマタイは、イエスの誕生は「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と言っています(マタイ1:22,23)。旧約聖書イザヤ書7章14節のインマヌエル預言を指しています。この「実現する」という言葉は、口語訳聖書では「成就する」と訳されていました。この言葉には「満たす、一杯にする、溢れさす、完成する」という意味があります。旧約預言は、例えばイエスの誕生地がベツレヘムである、というようにある一点について予告していて、それが実現した、と言われるだけではありません。先ほどの「インマヌエル」(神は我々と共におられる)は、旧約時代の聖徒たちにとっても真理でした。確かにアブラハムやモーセたちと共に神はおられたからです(出エジプト3:12)。しかし、器に水がいっぱいに注がれたように、イエスにおいてこそ、その真理が「満ちた、充満した、完成した」、ということなのです。

 

 

2018年3月11日(日)

  「そして今、神とその恵みの言葉と

にあなたがたをゆだねます。この言葉

は、あなたがたを造り上げ、聖なる者

とされたすべての人々と共に恵みを受

け継がせることができるのです。」

                 使徒言行録20:32

 

改革派教会に属すること

 成人洗礼・信仰告白(幼児洗礼を受けた人の信仰の告白)・加入(他教派から日本キリスト改革派教会に加わること)に際して、日本キリスト改革派教会では、6ヶ条の信仰告白を求めます。

 6番目の項目に初めて「日本キリスト改革派教会」という名称が出てきます。ここで私たちは自分が属することになる教会の素性を知り、確認することになります。世の中にはキリスト教会といっても、実に多くの教団教派があるので、なぜこんなに多くの派に分かれているのだろうかと疑問に思う人がいても不思議はありません。 

    大別すると、ローマ・カトリック、ギリシャ正教、プロテスタント、そしてカトリックとプロテスタントの中間的な位置に英国国教会(聖公会)があります。プロテスタントは宗教改革によって生み出された教会ですが、ローマ・カトリック教会を改革しようとしたことにその発端があります。多くの教会がありますが、元をたどればマルチン・ルター(ルーテル)による改革の伝統を受け継ぐルター派、少し遅れて登場したジャン・カルヴァンの改革した教会の伝統を受け継ぐ改革派(英国では長老派)が大きな二つの流れです。改革派は、カルヴァン派というように改革者の名前をつけて呼びません。ルター派も宗教「改革」の教会に違いありませんが、ルターが改革の狼煙を上げた人であり、余りにも重要な人物であるということを表しているとも言えます。改革派は、神の御言葉によって改革され続けることを標榜する教会として、時代ごとに地域・国ごとに信仰告白を作成してそれを告白し続けてきました。

 

 

2018年3月18日(日)

 「わたしたちが正しいからではなく、

あなたの深い憐れみのゆえに、伏して

嘆願の祈りをささげます。」

              ダニエル書9:18

 

旧約聖書に登場する聖徒たち

 旧約聖書には実に様々な人々が登場します。信仰を持って歩んではいたけれども、いろいろと欠け多い所があって、過ちを犯してしまう姿も示されています。次のような主の御言葉があります。「かの三人の人物、ノア、ダニエル、ヨブがいたとしても、彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ、と主なる神は言われる」(エゼキエル14:14)。正しい信仰者の代表としてノア、ダニエル、ヨブが挙げられています。信仰が義と認められている正しい人でも、その信仰で他者を救うことはできないということです。

ノアは神と共に歩み、主の好意を得ていました(創世記6:8,9)。しかし洪水後、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、裸で寝てしまったという少々恥ずかしい話が残っています(同9:21)。

 ダニエルは知識と才能を神から恵まれており(ダニエル1:17)、信仰深い祈りの人でした。神に愛されている者、と再三言われています(同9:23,10:11,19,)。彼は非の打ち所のない信仰者のように見えますが、彼自身は、自分たちは罪を犯し、主に逆らいました、と告白しています(9:15)。

ヨブは、その正しさと、神を畏れて生きていることを神御自身が認めているほどの人です(ヨブ1:8)。しかし苦しみを受けた後に主の御言葉をいただき、神の前で自分が身の程知らずであったことを認めて悔い改めます(同42:3,6)。こういう聖徒たちの姿は、どんなに信仰深い人でも、主の憐れみを受けているからこそ御前を歩ませていただけるのだ、という真理を示しています。

 

 

2018年3月25日(日)

  「パウロが、イエスと復活について

福音を告げ知らせていたからである。」

            使徒言行録17:18

 「死者の復活ということを聞くと、

ある者はあざ笑い、ある者は、『それ

についてはいずれまた聞かせてもらう

ことにしよう』と言った。」 同17:32

 

イエス・キリストの十字架と復活

 キリスト教信仰にとって、イエス・キリストの十字架は、福音の中心にあるものです。使徒パウロはコリントの教会に書き送った手紙で、福音のことを「十字架の言葉」(汽灰螢鵐1:18)と述べ、「十字架につけられたキリストを宣べ伝え」る(同1:23)と言っています。 十字架につけられたキリストを抜きにして福音宣教は成り立ちません。それほどキリストの十字架は重要なのですが、しかしこの十字架につけられたキリストが「復活された」という点を抜きにすることもまたできません。

 パウロがギリシアのアテネで福音を告げ知らせていた時のことが使徒言行録に書かれています(17:16~34)。アテネでパウロと論じ合った人々は、パウロのしていることを「外国の神々の宣伝」、「新しい教え」、「奇妙なこと」などと見なしていたのでした。それは、「パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである」(17:18)と使徒言行録は記しています。そしてその後パウロはアレオパゴスで説教をしますが、話が死者の復活のことになるとある者はあざ笑い、ある者はいずれまた聞かせてもらう、と言ったのでした。パウロの宣教は、奇妙なことと言われようが、あざ笑われようが、「イエスと復活」のことを告げ知らせたのです。

 「イエス」という言葉の中に、十字架が含まれているわけですが、復活を語ってこそキリスト教会の福音宣教と言えます。「外国の神々の宣伝。奇妙なこと。あざ笑われること。」これは、今日もイエスと復活を語る福音宣教への世の評価と反応かもしれません。

 

 

 

 

 



年間標語

2018年 年間標語      「神の力ある業を広く伝える」
年間聖句             『あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。』                
ペトロの手紙一 2章9節

2018年の予定

                           

ホームページ

http://owariasahi.holy.jp 「教会案内」をご覧ください。

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